中田厚仁が殺害された理由は?出身や大学は?名言や父の経歴も!

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中田厚仁(なかたあつひと)
 
NHKのクローズアップ現代に中田厚仁(なかたあつひと)さんが紹介されます。

 

中田厚仁(なかたあつひと)さんはカンボジアに渡り、国民に正しい選挙をしてもらうために、ボランティアとして活躍した方です。

 

だけれども僕はやる。

 

この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい。

 

「秘話・銃弾に倒れて…人々の心捉える日本人中田厚仁さん」

2018年8月2日(木) 22時00分~22時25分

 

中田厚仁さんとはどのような活動をした方なんでしょうか?
 

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中田厚仁さんの出身や命日は?生まれや大学も!

 

名前:中田厚仁(なかた あつひと)

 

生年月日:1968年(昭和43年)1月10日生まれ

命日:~1993年4月8日死去(25歳)

 

出身地:大阪府東大阪市

 

大学:大阪大学 法学部卒業

 

所属及び活動:国際連合ボランティア(UNV)

 

中田厚仁さんの殺害の経緯

 

中田厚仁(なかたあつひと)

 

 

1993年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が実施しました。

 

1993年カンボジア総選挙の選挙監視員として活動中に殺害されました。

 

 

1977年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れたことをきっかけに、

平和に関心を抱き、国際連合で働くこうと考えたそうです。

 

大学卒業後の1992年5月、

中田厚仁さんは国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)

 

が1993年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援する仕事に。

 

ボランティア(国際連合ボランティア(UNV))に採用され、

7月にカンボジアに渡りました。

 

中田厚仁さんはクメール・ルージュとカンボジア政府との

衝突が激しい地域への赴任を自ら志願したそうです。

 

1992年9月からコンポントム州プラサットサンボ郡の

郡選挙監視員(DES)に赴任。

 

1993年4月8日、中田はプラサットサンボ郡を自動車で移動中、

フィル・クレル村の域内で何者かによって拘束・射殺されました。

 

UNTACは軍事部門と文民部門の2部門で構成されてましたが、

文民部門の人間が殺害されたのは初めての事でした・・・

 

中田厚仁さんは、背中に3発、後頭部に1発の弾丸が命中していたそうです。

 

後頭部に命中した弾丸は左目の方向へ貫通していました。

 

 

 

1993年4月11日にプノンペンで葬儀と追悼式が営まれました。

 

1993年4月17日には日本(大阪府吹田市)でも追悼式が営まれ、

およそ2000人が参列したそうです。

 

追悼式を終え、父の武仁は中田の誕生を記念して植えた桜の木を

 

「厚仁とともに、おまえもこの世での務めを終えたのだ」

 

という言葉とともに切り倒したそうです。

 

 

中田厚仁さんの殺害直前にプラサットサンボ郡ではガーニーと中田が殺害されるという噂が広まっていたそうです。

 

そんな殺害の噂から中田厚仁さんの事務所に立ち寄る人が急に減ったそうです。

 

(この話を耳にした日本人文民警察官の坂井清三は中田に対し、当分の間プラサットサンボ郡に近付かないよう忠告していた)

 

1993年4月8日午前7時頃、

中田厚仁さんは国際連合ボランティア(UNV)の会議に出席するため、

プラサットサンボ郡プラサット・サンボーから、州都コンポントムに向けて車で出発した。

 

1993年4月8日の7時55分、「クメール・ルージュが攻撃してきた」「我々は撃たれた。助けてくれ」という連絡を最後に無線が途切れた。

 

その後、コンポントムの北東30キロの場所で車が発見されました。

 

車のフロントガラスと車の後部には銃撃の跡が・・・

 

中田厚仁さんは車の下でうつ伏せに、レイが車内の右側の座席に倒れていました。

 

中田厚仁さんは既に死亡しており、レイは息があったためプノンペンの病院へと運ばれたがまもなく死亡しました。

 

レイは病院で、クメール・ルージュによる犯行と証言して息を引き取ったそうです。

 

現場に残された足跡から3-5人による犯行だと考えられているそうです。

 

しかし確実な証拠が無く、

事件の有力な容疑者は浮上したものの逮捕することはできなかったそうです。

 

 

中田厚仁さんの遺族は葬儀のためにカンボジアを訪れました。

 

事件に関する調査報告書を提出するよう求めたが、提出されることはなかったそうです。

 

公正な選挙を実現させるため、国連ボランティアとして
中田厚仁さんはカンボジアに向かう正義感の強い人だたったと想像できます。

 

公正な選挙をおこなうために、中田厚仁さんは生涯を捧げました。

 

それも、日本では無く、世界の平和の為に・・・

 

川にぶつかればフェリーを使い、フェリーが行けなくなるとカヌーを使い、
カヌーが使えないときは泳いで村々を回り、公正な選挙について説き続けた。

 

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中田厚仁さんの名言とは?

 

中田厚仁(なかたあつひと)

 

だけれども僕はやる。

 

この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、

 

僕は、その誰かになりたい。

中田厚仁さんの功績

投票は予定通り5月23日から28日にかけて行われ、翌6月1日に開票作業が終了した。

 

中田厚仁さんが赴任していたプラサットサンボ郡の投票率は、

 

99.9%という驚異的な投票率でした。

 

投票箱の中からは投票用紙以外に、

 

中田を追悼する内容の手紙が複数発見されたとのことです。

 

中田厚仁さんのお父さんについて

 

中田厚仁(なかたあつひと)

 

お父さんは国連ボランティア終身名誉大使である中田武仁さんです。

 

長男厚仁さんが凶弾に倒れた直後、

「身を捨てても、やるべきことを息子はした」と語り、

遺志を継ぐため32年間勤めた貿易商社を退職しました。

 

1993年6月に世界初の「国連ボランティア名誉大使」になり、

紛争地などを訪ねて各国のボランティアを激励し、

ボランティア支援を国際世論に訴えた方です。

 

お父様は中田厚仁記念・国連ボランティア活動支援事務所、

公益信託・中田厚仁記念基金を創設しました。

 

 

2008年4月8日の厚仁さんの命日に15年間務めた名誉大使を勇退しました。

 

その後も終身名誉大使として講演活動などを続け、

「愛の対極にあるのは憎しみでなく、無関心。無関心が一番いけない」と訴え、

若者たちに「当事者意識を持つ『世界市民』に」と呼びかけた。

 

 

第一線から退いた後も、東日本大震災などの現場で活動するボランティアの動向には気を配っていた。

 

「日本を救えるのはボランティア精神だ」と語り、

 

ボランティアの裾野の広がりに熱いまなざしを注ぎ続けた半生だった。

 

中田武仁さんは2016年5月23日、老衰のため神戸市の病院で亡くなったそうです。

老衰で78歳の人生でした。

 

まとめ

 

中田厚仁さんを殺害した犯人や動機ははっきりしていませんが、

正しい選挙に対して良く思わない人の犯行なんじゃないかと思います。

 

誰かの為に、自らが立ち上がった中田厚仁さんとその意思を受け継いだ、

お父さんの中田武仁さんのご冥福をただただお祈りするばかりです。
 

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